⇒筆のしずく
       筆のしずく  別冊     「筆のしずく」の中で、長文のものを記載します。   
菅茶山の生涯
―地方創生の先駆者、その生涯―
 
1.おいたち 
 菅茶山は、延享5年(1748年)2月2日、父菅波久(きゅう)助(すけ)と母半(はん)の三男三女、その第一子として山陽道の宿場町備後国神辺で生まれた。幼名は喜太郎、元服して百(もも)助(すけ)、久次郎、晋(とき)帥(のり)を名乗った。字(あざな)は禮(れい)卿(けい)、通称は太中(たちゅう)、雅号が茶山(ちゃざん)である。

父久助(雅号樗(ちょ)平(へい)、諱(いみな)扶(ふ)好(こう))は近所の高橋家から本荘屋菅波家へ入婿、四代目として農業・酒造業を生業とし、本家筋の尾道屋西本陣(現神辺本陣)と並んで東本陣役を務めていた。書経や伝記物を広く読み漁り、俳諧を趣味とした。蕉風の遺句集「三月庵集」(茶山編)がある。母半は先代の実妹の子で養女、国史に通暁、子らの質問に即座に応ずることができた。父方の伯父高橋愼庵も儒医で、漢詩、和歌、狂歌などに秀でていた。
 
 
 
茶山は幼少時、善く病みがちだった。近所の仲間との遊びに馴染まず、喜んで書を読み詩を作っていた。神辺は、茶山の存生中、四度の一揆に収斂される福山藩の過酷な政治の煽りで、人心は疲弊、羽織袴姿の村々のお歴々を筆頭に「呑む、打つ、買う」が日常茶飯事、「ことの外悪風俗の處」であった。茶山自身も周囲からとやかく咎め立てされないのを幸いにその渦中に身を委ねていた。

2.一朝改𦾔業、修学  
 茶山は初期の詩で青年期特有の正義感溢れる理想と現実の狭間で、心底人生に慨嘆、世相に憤懣やるかたない心情を吐露している。自称「狂痴」(変人)、憂愁を遊興に紛らす中、書に学び、ふと我に返り身近な伯父の生き様を範としたのであろうか。 

明和3年(1766年)19歳、一朝旧業を改め、京都に最初の遊学、初め市川某に古文辞学を、のちその非を悟り那波(なわ)魯堂(ろどう)に朱子学を、和田泰(やす)純(ずみ)に古医法を学んだ。安永9年(1780年)33歳を最後に、健康上の理由に加え、学資や家督相続人・里正(村長)としての責務もあって一時帰休も、断続的に六度遊学した。

明和8年(1771年)、備中鴨方西山拙齋(せっさい)37歳がひょっこり茶山24歳の許を訪れた。初対面で意気投合、連れ立って三原西野へ観梅に出かけ、梅林の東屋に二人の名前を残した。この年、拙齋の案内で魯堂の門を叩いている。
拙齋は厳格、茶山は温和、対照的な人柄同士だったが、思想信条は同じだった。隣国・同門同士とあって、笠岡道を頻繁に往来、遊学を共にし親交を深めた。魯堂に学び、拙齋、茶山、賴杏(きょう)坪(へい)に繋がる思想は賴山陽にも共通している。尊皇の立場から、武家政治自体というよりも、寧ろ時の支配者が天理に反して、億兆の民の豊楽を収奪、艱難に追い詰めている現実を痛烈に批判している。

拙齋は時の老中首座松平定信から幕府儒官に、阿波藩からの藩儒招聘などを固辞、茶山は当初、病身を理由に遜辞しながら最終的には福山藩儒格を受諾、のちの藩校誠之館教授に民間儒者登用の道を拓いた。杏坪は晩年広島藩三次奉行として「民草に惠の露はかけもせで冷ゆる笞(之(し)毛度(もと))を置くがかなしき」現実に対峙、切歯扼腕、山陽は殊に権門に媚びることを嫌ったが、三都大江戸昌平黌教授への栄進の諾否を秘めたまま他界した。

安永2年(1773年)、茶山26歳は生涯刎頸の友となる賴春水を初めて大坂「南水南軒」訪
ねた。この時、新妻静子の胎内に、茶山を師父と仰ぐ山陽が宿っていた。最後の遊学では春水の紹介で、懐徳堂の中山竹山(ちくざん)・履(り)軒(けん)兄弟、茶山自身が「生涯忘じがたい思い出」としている「混沌社」社友葛(かつ)子琴(しきん)らと夢現のような交流を通じ「詩は茶山」と評される詩才の確固たる礎づくりをしている。爾後、遊学、二度の江戸出府を含む長旅や、郷里にあっては毛利賛州侯を筆頭に「菅家往問録」に記帳した人々などとの多彩な交流を通じて自らの研鑽の度を深めると同時に地元の文化・教育発展に計り知れない貢献をしている。地元関係では箱田村出身の箱田良助を通じて、伊能忠敬とも交流している。

3.私塾金粟園・黄葉夕陽村舎から郷塾廉塾へ
 茶山の役人嫌いは代々の藩主が「江府にありて国郡の栄枯、年の凶豊、民の苦楽を知」らぬ政治への失望感からであろう。修学を挟み、在郷時は渋々東本陣役を務めながら、医術を隠れ蓑に、読書三昧、余技に村童を集め専ら素読などを教授していた。安永4年(1775)茶山28歳、藤井料助(雅号 暮(ぼ)庵(あん))9歳がその塾舎「金粟園」に入門している。山陽道の斜交い、廉塾西南の屋敷内、園傍に金木犀があったことがその名の由来である。

 最後の遊学を終え茶山33歳は、拙齋に倣って郷土で一処士として歩む決意を固め、帰郷、最初の妻為(ため)と結婚。天明元年(1781年)ころ、新たに本宅の東北、高屋川堤竹林の下に塾を開いた。高屋川から清流を引き、東池を配し、四季折々を彩る花木を植栽、楚々とした自然に囲まれた学舎を徐々に整備して行った。対面に迫る神辺城趾「黄葉山」に因んで「黄葉(こうよう)夕陽(せきよう)村舎(そんしゃ)」と名づけ、舎背東西に伸びる田野の彼方に臨む連丘の一つ、茶臼山に因んで雅号を「茶山」、儒者の倣い中国風に「菅波」姓の一字をとって「菅」とした。

寛政4年(1792)、茶山45歳は学問、塾経営に専念するため家業を末弟圭二(号耻(ち)庵(あん))24歳に譲った。寛政8年(1796)年、請願書「郷塾取立てに関する書簡」を藩に提出した。塾の永続化を第一に、それまでの弟子暮庵や弟耻庵などの指導実績から自信を深め、何よりも、「学校の衰えは、世の衰ふる基」、茶山の謂う「学種」を育て、荒廃した村邑を再生、社会秩序の回復を目指した。

寛政9年(1797)、請願は受理された。爾来、「黄葉夕陽村舎」は「廉(れん)塾」または「神辺学問所」と呼ばれるようになった。博学の藩主阿部正精(まさきよ)が「不如学也」の親筆を贈った。
寛政10年(1798)拙齋64歳が他界した。茶山が「行状」を著わし、柴野栗山撰文、賴春水題額、賴杏坪書の「西山処士之碑」建立の世話役を務めた。

茶山を敬慕して、中四国、九州、畿内、東北などから武士、医師、僧侶、農民、商人などが続々入門した。修養年限は2~3年、入退塾自由。年平均20~30人が在籍。原則、全寮制、食費、書籍代は有料だが、授業料は無料。とは云え、年四両二分の学費は、当時の奉公人の一年分の給金を超える高額。茶山は塾生に就学を支える父兄への謝恩を説いている。また、諸費用が支払えない塾生には学僕として塾の仕事を手伝わせるなどの奨学措置を講じていた。
茶山自身、「廉塾」は藩から借りた庇の認識、自ら質素、倹約を率先垂範、子孫にも厳しく私物化を諫めていた。公正を期すため世話人を置き合議で経営に当らせた。茶山への扶持金、義倉からの儒学料、藩に収めた田畑の利米などで、講師料、書籍費、塾の修繕費などを捻出、余剰金、利米の運用で新たに田畑を購入、経営の安定を図っていた。

「鄙僻(ひへき)にありと雖も名海内(かいだい)に重し」茶山、それに学者には縁遠い筈の経営の才が揺るぎない基盤を確立した。文政9年(1824年)には、郷塾申請時の原資、塾の建屋(2間半×6間)、田畑(7反4畝5分)を同建屋、講堂(3室20畳)、寮舎3棟。田畑(7町8反1畝9歩、石高53石)と増加させている。

「欽(きん)塾」、「閑谷(しずたに)学校」、「藤樹(とうじゅ)書院」、「懐(かい)徳(とく)堂」、「咸宜(かんぎ)園」「梅園(ばいえん)塾」など全国各地の多彩な人脈を通じた情報収集網を縦横無尽に駆使しての集大成であろう。今日に受け継がれている内容が多いことに驚く。
まず、何よりも教師、「徳行を以て第一とする」とし、特に人選に意を用いている。都講に賴山陽、藤井暮庵、北条霞亭(かてい)、門田朴齋などが名を連ねている。折に触れての外部講師招聘(講師は廉塾の訪問客)、出前講座(今日の社会教育事業・文化講座。「詩文会」「書画会」など)を行っている。

学修指導は「中国の四書五経を主教材に漢学の基礎的な素養を身につける」がねらい。その内容は①読書・講釈(教科書の素読・復読・会読、講釈、共同学修が日課)。②詩文会(月六回程度。初心者に漢字を書かせるのが所期の目的。敢くまでも、読書が基本。濫りに詩を作ることを諫めている。③野外活動(夏の観螢、秋の登山)に大別される。生活指導面では塾生増加に伴い、「廉塾規約」を成文化。危機管理は火の用心。今日的な「いじめ」問題にも言及。所謂アカハラ防止策か、万一、主人(茶山)に問題があれば、老人だからとて遠慮せず云い憎ければ、年長者が代表して「直言」するようにとしているのも、自分の生き様に厳しい茶翁らしい。郷土史研究家によれば、茶山が全国各地に届けた学種は著名人だけでも38名に及ぶという。

注目に値するのは、深い師弟愛である。在塾中、急逝した塾生あての鄭重な弔詩、弔文、墓碑銘などがそれを自明にしている。「学種」継承のための必須条件としていたのであろう。

4.菅茶山-江戸文化・文政期随一の詩人 
 総括的に云えば、茶山の詩は漢詩だが、狭義には中国宋時代の宋詩である。当時、一世を風靡した盛唐の模倣詩から脱却、「宋詩に学」び、ありふれた身近な情景を目と心に映ずるままに、平明に写して詠む詩風を特徴とし、茶山は主として、農村生活・田園生活、自分史・交友、紀行に題材を求めている。身の周りの情景相半ばした詩文、その行間に鋭い政治批判が瞥見される。そこはかとなく滲み出る為人と人生哲学に、読者は他言を憚られる自らの心情の代弁者として共感、密かに拍手喝采、ひたすら、その出版を待ち望んだものと思われる。業者が出版を急ぐあまり、未校正の「悪本」が出回ったほどであった。

当時、自費出版の常識をうち破っての発刊も異例、版木費は業者負担、本の仕様は茶山の希望どおり、弟耻庵の詩集も附録とする余録も。茶山はこうした版元の破格の申し入れに驕ることなく、詩の完成度をより一層高めるため、賴山陽のほか、那波魯堂、六(りく)如(にょ)上人(しょうにん)、賴春水、柴野栗山、末弟 耻庵などに斧正を求め、最終校正段階ギリギリまで推敲を重ねている。

 江府にあっては、大学頭(だいがくのかみ)林述齋、元老中首座松平定(さだ)信(のぶ)や儒者亀田鵬齋(ぼうさい)など錚々たる識者が、それぞれに「茶山こそ当代随一の詩人」と折り紙をつけている。寛政4年(1792)福山藩主阿部正倫(まさとも)(老中)は述齋との詩論の中で「当今の詩家、当に菅太中を以って魁(かい)と為すべし」との応答に不意を打たれ、茶山からすれば「何の沙汰なく五人扶持」のご下命となった。文化11年(1814年)、鵬齋は往来の激しい江戸日本橋路上で初対面の茶山との真逆の遭遇に歓喜、態々それまで居た書画会場へ引き返している。

文化12年(1815年)、定信は述齋や家臣からの情報を得て、茶山に「からうたこはんとて」自邸「浴恩園」に招待、宴たけなわ、庭園の梅一枝を手折り和歌を添えて贈る歓待ぶり。その後も、茶山伏枕中と識るや妙薬を送り届けるなど昵懇な交流を続けている。この招宴を機に茶山と日本最初の古文化財図録「集(しゅう)古(こ)十種(じっしゅ)」の編集に関わった廣瀬蒙齋(もうさい)、大野文(ぶん)泉(せん)、谷文(ぶん)晃(ちょう)らとの交流が深まってまって行く。

5.飢饉時の貧民救済-私・社倉から福府(ふくふ)義倉(ぎそう)へ-
 茶山詩「窮隣」では「飢饉時、困窮者救済を思い立ったがなす術もない。過去20年間の学問は何だったのか。自分が愧ずかしい。」と猛省。それに死の直前、賴杏坪あて自らの墓誌依頼文に添えた寸楮でも、茶山が私的に実践した飢饉時の貧民救済や悪徳庄屋の打ち毀し、強訴・一揆謀議を察知、未然に防止したことなどの補完を求めている。

天明8年(1787年)、福山藩では天明の一揆(1786~1787年)を教訓に、朱子社倉法に基づく村邑対象の「府中社倉」を創設。次いで寛政8年(1796年)、河相周兵衛が発起人となり千田村講「福府義倉」が創設された。「名聞好き」と思われるのが厭で村役の手柄としているが、茶山が陰の仕掛け人。社倉と異なり福山藩全域を視野に、飢饉、それに教育、育英事業も対象とした救恤機関である。「福府義倉」の名付け親は茶山、藩に役料を支払って運用。そのため藩も粗略に扱わなかった。現在も「秋田感恩講」と並んで永々としてその使命を果たし続けている。

 茶山は傘寿に至る自分史を総括、儒学者、漢詩人、教育者としての自負もさることながら、何よりも朱子学者として「福府義倉」創設の一翼を担ったことへの矜持と同時に今日の大都市集中、少子・高齢化時代、「僻僻」にあるが故に、自助・共助・公助、これら次世代へ継承されるべき永遠の課題と目して他界したのではないかと思われる。

6.茶山の著書・遺墨
 敗戦による教育内容の変革の煽りか。英語はその実用性を巡って議論百出。我が国語は存廃の危機は免れたが、元祖、中国語が粗略に扱われ取っつきにくいチンプンカンプンに追いやられている。
茶山には多くの著書・遺墨がある。童生に乞われまま、梅一枝と交換で揮毫した書も微笑ましい。中でも、「菅君詩を以て世に鳴る」詩は、いきなり飛び出す晦渋を極める繁体字・語彙もさることながら、簡潔な詩語に凝縮された文藻、漢民族の永い歴史と文化を背景にした奥深い典故を極めずには語れない。

そこに郷土の誇るべき巨人「菅茶山」顕彰活動への隘路があることも否めない。「郷土の偉人」をひたすら次世代へ継承すべく、古から地元小学校では教育内容として教材化され、地域では茶山詩を児童生徒向きに平易な現代語訳を提供、そのイメージを絵画に託すコンテストも継続されて久しい。しかし、十分条件になっているわけではない。「門前の小僧習わぬ経を読む」。茶山が推奨した素読反復学修で、直読直解、茶山の「文は人なり」に迫るのも一つの解読法かも知れない。

詩歌集
①「黄葉夕陽村舎詩」(刊本)3編23巻。賴山陽、六如上人、那波魯堂、賴春水、柴野栗山、武元(たけもと)君(くん)立(りゅう)、北条霞亭、菅耻(ち)庵(あん)らの評語が記されている。

前編(通称)全10巻。文化4年(1807)までの茶山の詩集8巻923首。附録2巻。弟耻庵の詩集。文化9年(1826)出版。編者は賴山陽。序文、小原(おはら)梅坡(ばいは)。跋文、小寺廉之(かどゆき)。
後編全8巻1008首・前巻拾遺2巻。前編以降文政3年までの詩集。文政6年(1823)出版。編者は北条霞亭。

遺稿全7巻482首、後編以降茶山死歿までの詩集。附録として茶山の養嗣子萬年の詩42首を含む。天保2年(1831)出版。編者は賴山陽・菅惟(い)縄(じょう)。文稿4巻=黄葉夕陽村舎文。附録賴山陽撰「茶山先生行状」など。遺稿と同時出版。

②「花月吟」茶山が京都遊学初期に唐の伯彪に擬して詠んだ作品。茶山は「黄葉夕陽村舎詩」に収めず、備前藩儒中村圃公(ほこう)の懇望を承け文政7年(1824)出版。

③「三原梅見之記」文化10年(1813)三原西宮の梅林見物。

④「歌集」1巻 文化11~12年(1814~5)二度目の江戸旅行時の和歌集と見なされている。

旅行記
①「北上記」寛政6年(1794)後妻宣(のぶ)との吉野、京都、伊勢旅行。

②「遊藝記」(藝遊日記)(草稿)天明8年(1788)、広島・宮島厳島神社旅行中、四賴、春水、山陽、杏坪、春風(竹原)との交流。

③「常遊記」(「常陸ミちのき」)(草稿)。文化元年(1804)、藩主阿部正精の命で在府中、常陸国(茨城県)太田瑞龍山徳川家累代・朱(しゅ)舜水(しゅんすい)展墓。

④「大和行日記」文政元年、(1818)大和の医師服部宗(そう)賢(けん)に健康相談がてら満開の吉野山桜見物。

随筆
①「冬日かげ」一揆で荒廃した社会を立て直す役人の心構えと民衆教育の重要性を随筆風に記述。

②「夏の木かげ」(未発表草稿)「冬日かげ」の姉妹編と思われる。

③「随筆」(「筆のすさび」か)(刊本)。安政4年(1814)刊行。全4巻。

福山藩などの史誌
①「福山志料」(草稿)福山藩の地誌。文化元年(1804)、阿部正精の命により実質茶山一人で編纂に着手。文化6年(1809)、全35巻が完成。

②「答問福山管内風俗」(「風俗御問状(おといじょう)答書(こたえがき)」)(草稿)。文政2年(1819)。文化末年、幕府の問い合わせに応え茶山が作成した福山藩の回答書。

③「室町志」(未発表草稿)文政4年(1821)、足利尊氏から義昭まで室町幕府の盛衰を描いた歴史書。茶山は京都在住の賴山陽に資料文献の入手を依頼している。

7.巨人茶山逝く
 文政10年(1828)傘寿を迎えた茶山は自らの死期が迫ったことを悟り、六人弟妹、唯一人存命の末妹好(よし)、姪敬(きょう)、その敬と養嗣子萬年夫婦の忘れ形見菅三(かんぞう)(名は惟縄、号は自牧齋(じぼくさい))へ永訣を告げる詩歌を送り、同年8月13日、不帰の人となった。

病弱であったが故に、「微醺(びくん)小飽(しょうあく)」、健康管理に務めた。何よりも文人としての生き甲斐が長寿の活力源となったのであろう。謚は寛(かん)裕(ゆう)院(いん)廣譽(こうよ)文(ぶん)恭(きょう)居士(こじ)。御霊屋は黄葉山東麓にある。

昭和15年(1940年)県史跡に、昭和28年(1953年)、「廉塾並びに菅茶山旧宅」は国の特別史跡に、平成26年(2014年)、子孫が平成7年(1995年)県博に寄贈した膨大な「黄葉夕陽文庫」の中から「茶山関係資料」として5369点が国の重要文化財に指定された。

平成9年(1997年)、小惑星「kansazan」が誕生した。茶山と萬年の天文学上の事跡に感服した天文学者からの贈り物である。今宵も天空から、地方創生時代の先駆者茶山が甥と肩を寄せ合い,当面、故郷神辺、時移り福山市神辺町の老若男女、三世代交流活動「廉塾ふれ愛ボランティア絆の会」を慈愛に満ち満ちた眼差しで見守っていることだろう。

 
    リンク 菅茶山略年表 (資料)